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*「'''迪'''」は『[[書経]]』の「允'''迪'''厥徳謨明弼諧{{efn|允(まこと)に厥(そ)の徳を'''迪'''(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ}}」「恵'''迪'''吉従逆凶{{efn|'''迪'''に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり}}」に取材した<ref name="jitsuroku1-10">『昭和天皇実録・第一』p.10。</ref>。 | *「'''迪'''」は『[[書経]]』の「允'''迪'''厥徳謨明弼諧{{efn|允(まこと)に厥(そ)の徳を'''迪'''(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ}}」「恵'''迪'''吉従逆凶{{efn|'''迪'''に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり}}」に取材した<ref name="jitsuroku1-10">『昭和天皇実録・第一』p.10。</ref>。 | ||
*「'''裕'''」は『[[易経]]』の「益徳之'''裕'''也{{efn|益は徳の'''裕'''なり}}」、『[[詩経]]』の「此令兄弟綽綽有'''裕'''{{efn|これ、兄弟の綽綽にして'''裕'''あり}}」、『書経』の「好問則'''裕'''自用則小{{efn|問ふを好めば則ち'''裕'''に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり}}」、『[[礼記]]』の「寛'''裕'''者仁之作也{{efn|寛'''裕'''であらば仁の作すなり}}」に取材した<ref name="jitsuroku1-10" | *「'''裕'''」は『[[易経]]』の「益徳之'''裕'''也{{efn|益は徳の'''裕'''なり}}」、『[[詩経]]』の「此令兄弟綽綽有'''裕'''{{efn|これ、兄弟の綽綽にして'''裕'''あり}}」、『書経』の「好問則'''裕'''自用則小{{efn|問ふを好めば則ち'''裕'''に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり}}」、『[[礼記]]』の「寛'''裕'''者仁之作也{{efn|寛'''裕'''であらば仁の作すなり}}」に取材した<ref name="jitsuroku1-10" />。 | ||
同じ日には宮中[[賢所]]、[[宮中三殿#皇霊殿|皇霊殿]]、[[宮中三殿#神殿|神殿]]において「御命名の祭典」が営まれ、続いて[[豊明殿]]にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている<ref>『昭和天皇実録・第一』p.11-12</ref>{{efn|このとき万歳の音頭をとったのは明治天皇の皇女である富美宮允子内親王([[鳩彦王妃允子内親王]])、泰宮聡子内親王([[東久邇聡子]])の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば、産まれるのは(将来の天皇となる)親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。}}。 | 同じ日には宮中[[賢所]]、[[宮中三殿#皇霊殿|皇霊殿]]、[[宮中三殿#神殿|神殿]]において「御命名の祭典」が営まれ、続いて[[豊明殿]]にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている<ref>『昭和天皇実録・第一』p.11-12</ref>{{efn|このとき万歳の音頭をとったのは明治天皇の皇女である富美宮允子内親王([[鳩彦王妃允子内親王]])、泰宮聡子内親王([[東久邇聡子]])の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば、産まれるのは(将来の天皇となる)親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。}}。 | ||
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