1,084
回編集
細 (1版 をインポートしました: import from ja.wikipedia.org) |
細 (ボットによる: ref 名を使用した重複の回避のため、丸出しの脚注を変換, FAQを参照) |
||
56行目: | 56行目: | ||
=== ビクターに入社 === | === ビクターに入社 === | ||
1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を[[首席]]で卒業した。『週刊音楽新聞』は卒業演奏における「歌劇『[[道化師 (オペラ)|道化師]]』の[[アリア]]」「歌劇『{{仮リンク|密猟者 (ロルツィング)|label=密猟者|en|Der Wildschütz}}』より」の独唱を取り上げ、東京音楽学校始まって以来の声楽家になるのではないかと評した<ref>『週刊音楽新聞』1933年3月26日付。</ref>。藤山はレコード歌手になって実家の借金を返済したいという思いが強く、卒業直後に[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター]]に入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた<ref>[[#池井1997|池井1997]]、73-74頁。</ref><ref>[[#藤山1986|藤山1986]]、62-64頁。</ref>。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲が[[日本コロムビア|コロムビア]]から発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2[[パーセント|%]]のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた<ref | 1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を[[首席]]で卒業した。『週刊音楽新聞』は卒業演奏における「歌劇『[[道化師 (オペラ)|道化師]]』の[[アリア]]」「歌劇『{{仮リンク|密猟者 (ロルツィング)|label=密猟者|en|Der Wildschütz}}』より」の独唱を取り上げ、東京音楽学校始まって以来の声楽家になるのではないかと評した<ref>『週刊音楽新聞』1933年3月26日付。</ref>。藤山はレコード歌手になって実家の借金を返済したいという思いが強く、卒業直後に[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター]]に入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた<ref name="自動生成1">[[#池井1997|池井1997]]、73-74頁。</ref><ref>[[#藤山1986|藤山1986]]、62-64頁。</ref>。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲が[[日本コロムビア|コロムビア]]から発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2[[パーセント|%]]のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた<ref name="自動生成1" />。だが、1933年3月、コロムビアから発売された[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の[[オペラ]]『[[ローエングリン]]』のレコードには、藤山が本名・増永丈夫で独唱者に名前を連ねている。藤山一郎のビクター入社の経緯について[[菊池清麿]]は、藤山のビクター入社のきっかけは安藤兵部が獲得に動いたこと、当時ビクターには、[[橋本國彦]]、[[徳山璉]]、[[四家文子]]ら東京音楽学校の先輩が専属におり、クラシックと大衆音楽の両立がしやすい雰囲気があったことを指摘している<ref>[[#菊池1996|菊池1996]]、113-115頁。</ref>。ビクターに藤山を奪われる形となったコロムビアは、作曲家の[[佐々紅華]]と作詞家の[[時雨音羽]]をビクターから引き抜いた<ref>[[#塩沢1991|塩沢1991]]、39-40頁。</ref>。 | ||
入社2年目までの藤山は東京音楽学校に研究科生として在籍してヴーハーぺニッヒの指導を受けており、作曲・編曲・吹き込みなどを行う傍ら学校やヴーハーペニッヒの自宅にも通った<ref>[[#池井1997|池井1997]]、75頁。</ref><ref>[[#藤山1986|藤山1986]]、47頁。</ref>。1933年4月には[[読売新聞社]]主催の新人演奏会に東京音楽学校代表として出演し、同年6月18日には東京音楽学校の日比谷公会堂での定期演奏会に出演している。クラウス・プリングスハイム指揮の[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]『[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]]』をバリトン独唱。この時期の藤山は様々なジャンルの歌を歌っている。公演をみると1933年10月に日比谷公会堂で「藤山一郎・増永丈夫の会」を催し、藤山一郎として[[ジャズ]]と[[流行歌]]を、増永丈夫としてクラシックを歌い、美しい響きで声量豊かに独唱する増永丈夫とマイクロフォンを効果的に利用したテナー藤山一郎を演じ分け、双方の分野の音楽的魅力を披露した<ref>[[#菊池1996|菊池1996]]、127頁。</ref>。レコードをみると、流行歌以外に[[クラシック音楽|クラシック]]([[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]])やジャズのレコードも出している<ref>[[#池井1997|池井1997]]、72・74-75頁。</ref>。 | 入社2年目までの藤山は東京音楽学校に研究科生として在籍してヴーハーぺニッヒの指導を受けており、作曲・編曲・吹き込みなどを行う傍ら学校やヴーハーペニッヒの自宅にも通った<ref>[[#池井1997|池井1997]]、75頁。</ref><ref>[[#藤山1986|藤山1986]]、47頁。</ref>。1933年4月には[[読売新聞社]]主催の新人演奏会に東京音楽学校代表として出演し、同年6月18日には東京音楽学校の日比谷公会堂での定期演奏会に出演している。クラウス・プリングスハイム指揮の[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]『[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]]』をバリトン独唱。この時期の藤山は様々なジャンルの歌を歌っている。公演をみると1933年10月に日比谷公会堂で「藤山一郎・増永丈夫の会」を催し、藤山一郎として[[ジャズ]]と[[流行歌]]を、増永丈夫としてクラシックを歌い、美しい響きで声量豊かに独唱する増永丈夫とマイクロフォンを効果的に利用したテナー藤山一郎を演じ分け、双方の分野の音楽的魅力を披露した<ref>[[#菊池1996|菊池1996]]、127頁。</ref>。レコードをみると、流行歌以外に[[クラシック音楽|クラシック]]([[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]])やジャズのレコードも出している<ref>[[#池井1997|池井1997]]、72・74-75頁。</ref>。 | ||
462行目: | 462行目: | ||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
{{脚注ヘルプ}} | {{脚注ヘルプ}} | ||
<references /> | |||
=== 注釈 === | === 注釈 === | ||
{{Notelist|2}} | {{Notelist|2}} | ||
562行目: | 564行目: | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
* [[岡本太郎]] - 慶應義塾幼稚舎の同級生。2人の交友関係は生涯にわたって続いた<ref>[[#池井1997|池井1997]]、18-19頁・35-36頁。</ref>。 | * [[岡本太郎]] - 慶應義塾幼稚舎の同級生。2人の交友関係は生涯にわたって続いた<ref>[[#池井1997|池井1997]]、18-19頁・35-36頁。</ref>。 | ||
* [[平井康三郎]] - 東京音楽学校の同級生<ref>[[#藤山1986|藤山1986]]、45頁。</ref>。 | * [[平井康三郎]] - 東京音楽学校の同級生<ref name="自動生成2">[[#藤山1986|藤山1986]]、45頁。</ref>。 | ||
* [[長門美保]] - 東京音楽学校の同級生<ref>[[#池井1997|池井1997]]、40頁。</ref>。 | * [[長門美保]] - 東京音楽学校の同級生<ref>[[#池井1997|池井1997]]、40頁。</ref>。 | ||
* [[中村淑子]] - 東京音楽学校の同級生<ref | * [[中村淑子]] - 東京音楽学校の同級生<ref name="自動生成2" />。 | ||
* [[安部幸明]] - 東京音楽学校の同級生<ref>安部幸明『現代日本の作曲家5 安部幸明』音楽の世界社、14頁。</ref>。 | * [[安部幸明]] - 東京音楽学校の同級生<ref>安部幸明『現代日本の作曲家5 安部幸明』音楽の世界社、14頁。</ref>。 | ||
* [[松平晃]] - 東京音楽学校の後輩。 | * [[松平晃]] - 東京音楽学校の後輩。 |